つれづれなるがままに

つれづれなるがままにひぐらし。すずりにむかいてこころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなくかきつくれば、あやしうことものぐるおしけれ。

通過読者と執着読者

今読んでいる本で、はっとした言葉を紹介したい。

 

通過読者と執着読者である。

著者曰く、本により一度読まれて終わる本、手元に置いて起きたくなるほど愛着がある本。それらは、手に取った人によって変わるし、本の内容においても変わるとのこと。

 

はっはーん、となる。

私も通過読者として通り過ぎてきた本もあれば、何度となく借りては買おうか迷った本、迷いに負け買った本がある。

 

その違いは何なのか。好みに合ったと言ってしまえば簡単だが、それ以上の何か共通点があるに違いない。

 

今思い浮かぶ執着した作品として中学時代、高校時代から読み続けている作品が二作ある。それらに共通するもの。

文体か。いや、文体ではあるまい。片方は最初から読みやすかったのだ。一方は文体に慣れるまで時間がかかった。

 

ない頭を絞って考えてみたところ、どちらもキャラクターが脳内できちんと喋って物語が進んでいったというのが近い。本を読んでいる感ではなく、物語の中を進めた本だから。稚拙な言葉で言うならばそうなるだろうか。

 

なかなかに興味深い。

 

しかしながら、さらによく考えよ、自分。

そうでない本があるにせよ、そうであった本で今や忘却の彼方へと隠れひそんだ本もあるはずだ。

 

では、何が。

 

んー。こんがらがってきた。

 

こういう時はシンプルに考えるのが一番だ。

 

そう、大好きな二作は各キャラクターの生き様が好きだった。たくさん助けてもらったし、たくさん勇気をくれた言葉がたくさんあったのだ。読むたびに響く言葉や意味が変わるし、いまだに年1で愛読している。

 

と、ここまで考えて、だから未だに大人にならないのではないだろうかと思い立つ。

 

いやいや。好きなことは好きなのだから、いいのであると自分に言い聞かせつつ、目をそらす。

 

通過読者としてながしてしまった本も、読み返す時にはまた違うかもしれない。

思い立ったら読み直そう。そして、執着できる本をこれから先の時間でたくさん見つけていきたいものだ。